15日の19時20分頃、母から電話がありました。
出ると母の声は暗く、「19時12分におじいちゃんが亡くなった。今はまだ病院だから詳しいことが決まったら、また連絡する。」と。私はすぐに旦那にメールをして教え、しばらくして気持ちを落ち着かせてから旦那の両親の家に電話しました。すると、旦那から即連絡が入っていたようで、義母からは「聞いたよ。」と言われ、色々とおじいちゃんについて聞かれ、「手伝うことがあれば、言ってね。」と言ってくれて、「また明日にでも決まったら連絡します」と私は言って電話を切りました。
その頃、テレビではヘキサゴンを見ていたので、最後に「
泣いてもいいですか」の歌を聞いている時に、先週聞いた時からこの曲は「泣ける歌
」だな~って思っていたのですが、この日は、その歌が祖父との思い出と一緒に、涙が止まりませんでした。私の泣いている姿を見た翔平が、私の頭を撫でてくれて、また更に泣けてしまいました。
祖父は、7年ほど前から認知症と判断されていました。今年に入ってから毎年のことですが、肺炎で病院に入退院を繰り返していました。それと同時に、6年近く行っていたデイサービス施設を辞めて、しばらくは実家近くの総合病院へ入院していました。医者からは、「また家に連れて帰ると、同じことの繰り返しになるので、介護施設のある病院に入れた方が良い」と言われ、母達は悩んだ末に、3月始めに病院の紹介してくれた介護施設のある病院へと転院しました。転院前に、私と翔平は祖父に会いに行きました。その時は、とても調子が良かったようで、笑顔で私たちのことを気遣ってくれたりしました。転院後も顔を見せに行こうと思っていたのですが、結局行くこともなく、突然の訃報でした。
祖父は明治45年(正式には44年)1月生まれで、享年98歳でした。認知症が日々酷くなっていたのですが、血圧が低いだけで体は至って元気で、60年間一つの会社で働いていたこともあり、足腰はもちろん病気は全くなく、お医者さんからは「内臓年齢が50代だ」とまで言われたぐらい元気だったので、肺炎になっても数日で回復するということが多かったです。デイサービスでも元気なおじいちゃんとして知られていました。
先月も肺炎で、一時昏睡状態になり、母から「もしかして・・・ということがあるかもしれないから覚悟しておいて」と言われていましたが、回復していました。亡くなった日も母が顔を出した時には、鼻に酸素チューブが入っていたのですが、意識はしっかりしていました。亡くなる2時間前にその様子を携帯のカメラで撮っていたのでそれを見せて貰いました。まさか2時間後に急変して亡くなるとは思えなかったので、母は家へと帰っていたので、呼び出されて病院に着いた時には、すでに亡くなった後でした。父も間に合わず、死に目には間に合わなかったとのことです。
16日にお通夜、17日に告別式をして、無事に葬儀を終えてきました。お通夜の日は、旦那が仕事を休めないということで、朝から私と翔平だけ、泊まり支度して10時から枕木をするということで、葬儀場へと向かいました。葬儀場は祖母が亡くなった時と同じところで、私の家から歩いてでも行ける距離にあります。母が迎えに来てくれたので一緒に行きました。姉は、一人で来ていました。たまたま16・17日を義兄は連休を取っていたので、子供達が幼稚園と学校から帰ってくるのを待つため、お通夜の時間に来る予定でした。
枕木を終えてから、14時に打ち合せがあるというので、それまで時間があるので、一旦私と翔平は姉の家に行き、お昼をご馳走になり、必要なものを買いに行く予定にしていたのですが、家に向かう前に姪っ子が熱を出したと幼稚園から連絡が入ったので、幼稚園に姪っ子と3歳の甥っ子を迎えに行き、家に行きました。熱があるので、通夜に子供達を連れて行く予定にしていたのですが、やめて、義兄に翔平も預け、子供達の面倒を見て貰い、私と姉だけが出ました。
すると、葬儀の受付を姉と私の旦那に任せる予定だったのですが、来られないので、私と姉がしました。父が喪主なので、私たちが出来る範囲を手伝いました。通夜が終わってから姉が旦那の母親を連れて、家に戻り、姉が翔平と義兄を連れて戻ってきました。私の旦那は通夜の日は結局23時頃に会場に着き、翔平は待ちくたびれて、寝てしまいました。旦那も祖父の顔を見て、しばらくしてからその日は、私の実家に泊まりました。愛犬がいるので、私たちが泊まって、愛犬の世話をしました。翔平は実家の愛犬がとても嫌いなので、旦那と翔平は鍵のある部屋で寝て、私は両親のベッドで寝ました。愛犬がいつも両親の部屋で寝ているので、私が側で寝ました。
17日の朝、母は喪服の着物を着るために7時頃に帰ってきて、父もしばらくしてから帰ってきました。私は訃報を聞いた日から寝付けず、明け方の大雨と母の戻ってきた音を聞いて起きました。8時半頃に翔平が起きてきて、母達が会場に戻ったあと、旦那が起きました。葬儀は12時からだったのですが、私は受付をしないといけないので11時前には会場に着きました。翔平の服は、姉が甥っ子の幼稚園のズボンを貸してくれたので、それを履いて、上は姉が黒っぽいTシャツを買ってきてくれたので、それを着せて出ました。姪っ子は熱が下がったので、姉の子供達も葬儀に参列しました。
葬儀中、翔平は旦那に抱っこされたまま寝てしまい、最後のお別れの時も寝たままでお別れしていました。祖父の棺には、愛用していたマフラーと帽子、鞄、デイサービスにいた時に貰ってきた首飾り、大好きだった相撲の絵が描かれた扇子を入れ、私と姉からはお酒が好きだった祖父の為に紙パックのお酒を許可を貰って入れ、従姉妹達はお手紙を入れていました。
お酒は2個買ってあったのですが、一個は棺に入れ、もう一個は葬儀場の方のご厚意で、親族が一人一人、祖父の口に榊(?)の葉を使ってお酒を少しずつあげて、お別れしました。出棺の時には翔平は目を覚ましたのですが、私と姉だけが火葬場に向かうので、義兄と旦那は子供達を見ててもらうために残ってもらい、火葬が終わった後の初七日法要の時に再び葬儀場に来てもらい、最後まで無事に終わりました。子供達は葬儀中はとても良い子にしていて助かりました。
火葬は、1時間ほどで終わり、遺骨を見た時には、みんなビックリでした。やはり足腰がしっかりしていたこともあり、97歳とは思えないほど骨がしっかりと残っていました。前日の納棺の時には、足袋など着用させるのを遺族が手伝わせてもらえたので、その時に改めて祖父の寝ている姿を見たのですが、細くなった体の割に、大きな足と手が目立っていました。健康だった証拠ですね。
95年の春に、祖父母の家を二世帯同居に建て直して、私の両親と一緒に同居が始まりました。父は末っ子なのですが、跡取りとして生活が始まり、98年の冬に祖母が亡くなりました。その当時で祖父は85歳を過ぎていて、今思えば、あのころから祖父は認知症が始まっていたのかもしれません。祖母が亡くなってから10年7ヶ月。認知症と診断されてから6年半。介護はとても大変で、実家に帰るたびに母達の大変さを目にしていました。
出掛けるのが大好きだった祖父は、祖母がいる時は毎日のように交通機関を使ってあちこち一人で出掛けていました。私が高校生の時、帰りのバスが一緒になって、家まで話をしながら帰ったこともありました。姉は小さい頃に、祖父と一緒にあちこち連れて行ってもらい、お酒が好きだったので、途中で居酒屋さんなどに寄って、おつまみなどをもらっていた、という思い出話が尽きませんでした。
100歳まで生きる
と言っていたのに、あと数年というところだったので、あまりにも突然の死に、とても悔やまれます。でも、数年でしたが、一緒に生活できて良かったです。死んだとは思えないほど、顔つきは穏やかで、起こしたら起きそうなぐらい普段と変わらない顔でした。最後は、肺炎とは言いつつ、老衰もあったので、あまり苦しむこともなく安らかに亡くなったのかな、と思ってます。思った以上に、たくさんの方が来てくれたので、本当に良かったです。二日間で孫もひ孫も集まることができましたし。
最後に、父と母には、介護疲れが出ないよう、これからも元気でいてもらえることを願っています。おとうさん、おかあさん、本当に長年の介護、お疲れ様でした。
おじいちゃん、安らかにお眠り下さい。天国から見守っていてくださいね
長々と書いてしまいましたが、最後まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました
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